どんな気持ちの状況でさえ、否応なく桜は咲き乱れ、春を気づかせてくれます。
散ることを知っているのに、咲く事をやめない桜を、今年も見ています。
福岡での個展が終わり、少し旅をして、また東京に戻りました。
次の予定に思考を持っていかれて立ち止まり、立ち止まっては、見えない時間を模索したり。
物理的な様々な出来事を、「乗り越えなければいけない」と思っている瞬間に、
途方に暮れて今を見失ったり、何だか自分じゃなくなった気になってしまったり、
それでもなんだかんだと忙しい日々は続き、
いつも何かを忘れ物している気になって、とても焦ってしまう時があります。
そういう時は、だいたい、絵を描くのを忘れています。
絵を描いていても、絵を描いていることを忘れてしまっています。
追われている意識でも、追ってる意識でも、何も生まれてこないことを知っています。
何度失敗しても、また同じ意識に戻ってしまう。
否定することはもう懲りていても、
何だか滑稽だな、
何度も同じことの繰り返しじゃないか。
全てに意味を見いだそうとすることは、いちばん無意味だと気づいているのに、
同じ場所をぐるぐるぐるぐるまわってしまいます。
描き続けていても、思考のパーティーはいつまでも続きます。
どんなに過多な雑念が入ろうとも、それでもそれでも描き続けます。
そうしていくと、いつの間にか誰かが、すっと忘れ物を届けにきてくれます。
見えないドアを開けて、届けにきてくれるのです。
描き続けていくことは、理由のないことだと思います。
振りかざすことでも、顕示することでもない、ただの行為です。
結果もないし、ゴールもない。
ただ、寄り添って生きているんだと思います。
絵で、自分の心を震わせたい。そこからでないと、何も見えない。
答えを知っているのに、トンネルの中がくもっている。
出口に出るのは他でもない自分です。
描く時はいつも自分自身を深く深く見つめます。
自分にとっては、やはり必要不可欠な「行為」です。
過去や期待や理屈や欲が、全て消えた瞬間に、いつも最高が待っています。
そしてその最高だけをシェアしたいと感じます。
楽しく深く、そして毎日が自分自身との戦いです。
つい最近、心の奥から震える作品を観ました。
作者もタイトルも、何も知らない、ただ通りすがった銀座の街角のギャラリーの中に見えた絵でした。
引き込まれるようにその中に入り、ずっと見ていました。
ただただ、ずっと観ているばかりでした。
「理由」は探さなくても、それよりも大切なことが、きっと存在していると思います。
半年程前、「子供たちと絵を描きたい」という想いが芽生えてから、いろんな人に相談をしてきました。
個展終了後、ありがたいことに、ご縁をくださった方たちからのご協力により、
ワークショップをさせてもらったり、こどもたちがいる施設を訪問させてもらったり、
今後の予定のミーティングをさせてもらったり、着々と実現へと向かいつつあります。
僕は、先生になりたいわけではありません。ただ、子供たちと絵を描きたいのです。
彼等の直感で描く世界を、知りたい。
そして、年代に限らず、元々こどもたちだった私たちと、夢中になることを共有したい。
上からでも下からでもなく、フラットに「そこ」に存在する「今」を、見つめたい。
いろんな場所で、たくさんの子供たちの笑顔を見せてもらいました。
そして、たくさんの絵を見てきました。
どれも、本当に美しい作品ばかりでした。
そして、子供たちと僕とみんなで描いた「はじまり」という絵。
筆や道具を使わず、全部指や手、自分が感じたままに描きました。
忘れものをしているような気になるのは、僕がうっかり大人になっているからかもしれません。
子供たちは、忘れものをしている場所を、そっと僕に教えてくれます。
桜が咲いたら、春が来る事を思い出すように、
あたたかくなったら長袖を脱ぐように、
のどが乾いたら飲み物を飲むように、
当たり前のことを、当たり前のように、
ただ「存在していること」の素晴らしさを、教えてくれます。
実はここから書く文章が、ずっと出てこなくて、長いこと完成させることを放置していました。
考えても出てこないので、このままの想いを綴ります。
見学に行った場所には、いろいろな子供たちがいます。
あえて、その形の分類は、僕は言いません。
銀座で見たギャラリーの絵も、施設で見学した絵も、ワークショップで見た絵も、
僕が心を打たれたという部分が、偶然にも全て共通している、形でした。
子供たちが、そして、
子供の心を持っている人間が描く絵は、
きっとどれも美しい。
僕にはジャッジしたり、優劣をつけた区別なんてするつもりは全くありません。
しかし私たちは、
いつからか、自分達が持っているありのままの能力を、
成績として評価され、優劣をつけられ、
本来好きだったことかもしれないことを苦手だと思い込まされたり、
誰かと比較されて劣ってると烙印を押されたとたん、出来ないと決めつけてしまったり、
誰かに否定されたから、そのまま自分を否定してみたり、
いつの間にか、誰かに制限された自分を無意識に作りあげてしまっているのかもしれません。
形に優劣をつけたのは誰ですか?
能力を数字で評価した人は誰ですか?
苦手意識を植え付けた人は誰ですか?
出来ないと決めた人は誰ですか?
やってはだめだと制限した人は誰ですか?
できない人間は馬鹿だと言った人は誰ですか?
そして、
形に優劣をつけられたと思っているのは誰ですか?
能力を数字で評価されたと思っているのは誰ですか?
苦手だと決めつけて諦めてるのは誰ですか?
出来ないと決め込んで何もやらないのは誰ですか?
やってはだめだと、制限されたと思い込んでるのは誰ですか?
馬鹿だと決めつけられて、ふてくされて膝を抱えているのは誰ですか?
子供たちは、そんなどうでもいいことも何もない世界で、直感で生きています。
そのままで、ありのままでいる美しさを、
何のてらいもなく、凛としてそこに存在しています。
どうかあなたが好きなことを、
あなたが好きなままでいれますように。
あなたが造り上げたものが、誰にも否定されずに、そのまま存在しますように。
例え否定されようが、そんな事気にせずに、ずっとあなたが好きな事を続けられますように。
そして、あなたが、あなたのままでいられますように。
また子供たちに会いにいきます。
そこで出会うであろう、子供たちの笑顔と絵をイメージして。
僕もまた、僕のままで製作を続けます。
桜は散ったあと、青々とした新緑の葉を繁らせます。
花が咲いて、散っている時だけが桜ではありません。
姿を変えても、桜は桜で、ずっとそこにいます。
姿が変わっても、
ずっとそこにいる本当のあなたは、あなたのままです。
僕ももちろん、僕のままです。
みんな子供で
きっとあなたも僕も
2012/04/11