琥珀の馬と金の轍

年越し過ごした那覇で、
ずっと気になっていた、ある作家の陶器を買いました。
何度となく訪れた那覇で、毎回見に行ったそのアトリエ、
いつのタイミングでも、その器が買えなくて。
眺めるだけでもとても美しいから、
ただそれだけのために、必ずそこに向かっていました。
決して絶対に買えないほどのお値段でもない、
何なら茶器セット、すべての食事に使うものも、
今つれて帰ることはできるかもしれない。
でもそんな数字と相談する思考が、作品にばれようものならば、
きっと僕のトランクの中でその陶器は割れてしまうだろう。
作家の想いは、言葉では決して言い表せない。
本物はそこから必ず、「念」を感じる。

今年の1月1日、またそのアトリエにいた僕は、
ずっとずっとその器たちを見ていました。
「よし、今年から、この器で飲み物をいただこう。」
どれくらいの時間がたったのだろうか、
僕はそこでひとつ、マグの陶器を買おうと決めました。
今は僕と一緒に暮らしています。

なぜなのか、ずっと前から、三次元を表現できる人に憧れていました。僕が足繁く見に行く展示は、
決まって立体や彫刻、建築そして陶芸の作家の方ばかりです。
毎日、毎日、その器で朝から飲み物を注いで、
それをみているうちに、
僕は、自分ができない何かに嫉妬していたのかもしれない、
ないものねだり、自分自身から逃避していたのかもしれない。
ふと気づきました。
そしてその思いはスポンジでそれを洗うたび、
その「もの」を創る人への尊敬に変わり、
そして何より、自分が「平面」の中で、
無限大を創り出していく、
「覚悟」をより強くさせてくれています。
そして勿論、次元を行き来することは、
誰にだって可能性は無限大なんだと。
決め付けてしまっていた自分自身が、
ますますゼロに近づいています。

もう始まっていることを、終わらせる必要もない。
終わらせたいものを、無理に続けることもない。
「有るもの」と「無いもの」に優劣はない。
たくさんの冒険をさせてくれる
この器を
「ひとつだけ」
いただけて本当によかったと感じています。

体がもぎとられるほど、描いて描いて描きまくった、
去年の秋から、今の冬。これほどまでに生きていることを体感したのは、
初めてだったかもしれません。

製作をする機会が増えたこと、とてもありがたい気持ちと、自分ひとりの体では足りない、キャパシティの限界を知りました。マルチプルを作ることはとっても簡単で、でもそれは完全に消費の世界に似非の作品を落とし込むだけで、いつしかそれは旬という言葉ですぐに消えてなくなってしまいます。

旬は媚薬です。作品という名の商品をつくることは僕の仕事ではありません。最愛なるスタッフに恵まれ、
僕は完全に「ひとつだけ」に集中して創ることができました。

自分自身を信じ、自分の作品を信じ、新しい作品を創りました。
そして覚悟し、確信しました。
だからこそ、DAWNという展示で発表した作品たちは、
自分と共に戦い抜いてくれた盟友だと思っています。
たくさんのご来場、ご高覧ありがとうございました。
関わっていただいた、すべての関係者の皆さんに心より、感謝申し上げます。

先日、豪雪の中、強羅へ行ってきました。
その景色を見ながら、昔、祖母がよく話してくれた、
琥珀の馬の話をふと思い出しました。

祖母はよく、色にまつわる話をしてくれました。
今でさえほんとうの琥珀という色を知っているけれど、
何だかその頃、琥珀といわれると、
透明に近いくらいの白のイメージが強く、
キラキラ輝く見えない馬が走っている様が、
僕の頭の中をぐるぐる回っていました。

話の内容はすっかり忘れてしまいましたが、そのときのばあちゃんの顔は、まだ覚えています。
どんな話だったかなぁ、ばあちゃんに聞いてみないと。

いつも、「話半分で聞いときなさいね」って言ってたから、
今度俺が作ってみようかな。
その話の続き。琥珀の馬が、誰かを救ったような、おとぎ話。

もうすぐ、祖母が亡くなって10年です。

明後日は祖母の誕生日です。

また新たなプロジェクトが始まっています。ものづくりは戦いです。
しかし、エゴや自己顕示をダイレクトに降ろしたままのものは、
僕は作品とは呼びません。

那覇で買った、「ひとつだけ」の器を毎日見て、
僕の作品を買ってくれた人のことを、思い出すのです。
その器が僕を助けてくれたように、
今もまたどこかで。また新たな「ひとつだけ」の作品を通じて、
また皆さんとお会いしたいです。製作を続けます。

2014/02/14