指先から絵の具が出てくればいいのに。
色を選んでいる瞬間の、思考とも直感ともとれない感覚の時間が惜しい程、2月は製作を続けていました。

ミーティングも兼ねて香港に行ってきました。
まるで夢の中にでもいるような真っ白の濃霧の中のヴィクトリアピーク、
ミッドレベルエスカレーターから見える町並み、
コーズウェイベイの雑踏、
チムサアチョイの混沌、
そして言うまでもない香港島が放つシンフォーニーオブライツ。
この街が放つ、独特の湿度と、一瞬にして変化していく色の洪水。
何のプランもないまま、気が赴くままに、九龍から見る夜景を彷徨いながらも、
ぼんやりホテルのプールで泳ぎながらも、風呂に入ったままうっかり寝てしまっても、
結局自分がやっていたことは、いつのまにか五感に忍び込んで来る残像の感覚を、
部屋で紙を広げて描いて残すことでした。
仕事や趣味との区別がつかない今、
「描く」事は自分を形成している中で、とても広範囲にシェアされていることに気づかされました。
この街でエキシビジョンをやるとしたら、どんな世界を創れるんだろう。
インスピレーションとイマジネーションは似ているようで、決してイコールではない。
自分の体内に降り注ぐ怒濤の色の群衆を、このパイプはどのように濾過していくのだろう。
けたたましく鳴り続けるクラクション、それに共鳴するように響く広東語と英語。
ふわふわと浮遊しているような感覚が、
何だかまだ自分が見たこともない世界に連れてってくれそうで、
とても心地よい旅でした。
そして、どんな場所に行っても、
やはり人間は優しい人ばかりです。
優しい人達が創る料理はどれも美味しかった。

28日は、大切な人の命日ということもあり、
終日、食を慎み、食べ物をいただく事に感謝を捧げました。
普段、自分が勝手に思い込んでいる「当たり前」が、
実は「奇跡」だということに気づかせてくれるよう、
神様は私たちに「記憶」を与えているのかもしれません。
今、目に見えているものの繋がりだけで、人は生きているわけではない。
目には見えない、見る事のできない、
何か大きな力で、私たちは生かされているのだと、
日々の視点を少し変えるだけで、感じることができます。
依存や逃避では何も生まれません。
しかしそこからしか繁殖できない嫉妬や妬み、
苛立ちは、見えない誰かを蝕む程の劣悪な力を持っています。
人間だから当たり前、だと諦めずに、なるべく依存することを減らしたい。
たった一日半の絶食を通して、大きく学ぶことができました。
そして翌29日、僕はまた1つ、歳を重ねる事ができました。

まだ小さい頃、クラスメイトに「おまえは誕生日が無い」とバカにされ、
喧嘩して傷だらけで帰った時がありました。
母に「どうして僕には4年に1度しか誕生日が来ないの?どうして皆と同じじゃないの?」
ひどく泣きついた事を覚えています。
母が言いました。
「人と違ったっていいじゃない。
あんたは4年に1度、4つ歳をとるのよ。
だからいつもの4倍、ありがとうって言いなさい。
いつもの4倍、喜べばいいの」
いつの頃からか、うちの2月のカレンダーには毎年、母の手書きで「2/29」と書かれるようになりました。
そして、家族はみんな28日と3月1日の日付をまたぐ一瞬に、
早口で「おめでとう」と言うのが毎年の恒例になり、
僕はその皆が早口する事が可笑しくて、いつも笑うようになってました。
家族なりに気を使ってくれていたのか、
その早口競争は4年に1度の本当の誕生日が来ても毎年続きました。
32歳になりました。
奇跡にも、僕に「おめでとう」と言ってくれる人達がいます。
あなた達に「ありがとう」を言わなきゃいけないのは、僕のほうなのに。
当たり前だなんて、絶対に思いません。
今、
あなたが、
私が、
ここにいる、
存在している。
そう感じる。
あなたがいる感覚、
あなたを感じる温度、
あなたが存在しているというイマジネーション。
私を司っている、全ての存在に対して、本当にありがとう。
こうして、また感謝を忘れないように、暦はめくられていきます。
今日は、また誰かが、生まれているんだね。
毎日が、誰かの、誕生日。
おめでとうございます。

今福岡へ向かう空港です。久しぶりの展示です。
毎日それぞれの誕生日を迎えた、131枚の作品達と共に、行ってまいります。
ひょっとしたら、指先から絵の具は出ているのかもしれません。
「出てるわけねえだろ」
という当たり前の概念を外せば、
どこからだって、自分色の放物線を描けそうな気がします。
曇り空に向かって、指をかざしてみます。
2012/03/01